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 アジアの民族問題というとフリーチベットのキャッチコピーでお馴染みの中国のチベット自治区が有名だが、地図を具に見て行くと、マイナーながらも長く細く続いている問題がある。これらの地域は余程の大事件でも起きない限り報道されることがなく、問題の存在そのものを知らない人の方が多いような気もする。また報道されたとしても、チベットなどと違い必ずしも被害者、被抑圧者として扱われるとは限らない。酷い場合は犯罪者や宗教ゲリラ扱いされることもあり、つくづく外交上の国益にならないマイナーな人権問題の立ち位置が思い知らされる。

 こう考えると中国やイラクなど、特定の民族への抑圧などを指摘されている国が気の毒に思えることがある。インドがラダック地方(ここもチベットの一部)を支配しても、トルコがクルド民族を抑圧しても、殆ど誰も何も言わない。インドが英連邦で、トルコがEUの一員であることと関係あるのかは知らないが、よそ様の国の人権問題を国際的な問題にする見極めの一つに、それを指摘することが自国や自社(主にメディア)の利益に適うかどうかというのがある。
 
「国際世論は健全か」というほど大袈裟なテーマを語る知識はないが、何時もの如く趣味の空想を駆使して、以前から気になっていた二つの事例を見てみる。

注 : 歴史事実の認識については、誤読や誤解があるかもしれません。詳しい方は御教示を。


  正式な呼び名は知らないが、ここではパタニ問題とする。微笑みの国タイランドに長く蔓延る内戦と言っていい。舞台は深南部三県と言われるヤラ、パタニ、ナラティワートに跨がる地域で、住民の多くがイスラム教徒というのも何となく馴染みのパターン。結論から言えば、もしキリスト教徒が多数を占める地域だったら、国際社会での扱いは全く違ったものになっただろうと思う。

 問題の詳しい部分はウィキペディアに譲るとして、問題そのものは至極単純なもののように見える。で、ウィキの記述を元に単純に整理すると

一  まずパタニ王国とは、14世紀から19世紀にかけてこの地域に存在したマレー人の王朝。

二  スコタイとアユタヤ王朝の時代にはタイに支配されていたが、18世紀後半のアユタヤ滅亡とともに再び自立した。

三  しかし18世紀末期に成立したチャクリー王朝によって再び制服され、20世紀初めのタイと英国との間で交わされたバンコク条約によって、パタニがタイ領であることが国際的に承認される。

四 第二次世界大戦での日本の敗戦によるパタニ独立を条件に、パタニ独立運動の指導者は戦時中に英国と同盟したが、戦後その約束が反故にされた。

五 よって武力闘争も含めた分離独立運動が、多数の死者を出しながら今日まで続いている(このうち武力闘争と軍の対応については、ユーチューブでいくつかの動画が公開されているので参照されたい。takbaiで検索を)。

 どうですかね。深く考えるまでもなく、パタニ側の言い分に特におかしなところがない。こう言っては何だが、人種も言語も宗教も違う国王に忠誠を誓えと言っても無理がある。キリスト教ゆえに独立させたに過ぎない東チモールなる分断国家の誕生を、あたかも民主主義の勝利の如く持て囃した国際世論を顧るに、共同体としては遥かに真っ当なパタニが独立出来ないのは不条理としか言いようがない。社会は公平ではないといったところか。

 その不公平を強力に後押しするのが外国政府と外国メディア。日本でいうならタイ王国との経済の強力な結び付きから見れば、どっちに転んでも何ら国益に影響を及ぼさないパタニ問題は如何にも小さい。下手に口を出して王国政府の不興を買い、貿易などが拗れる方が遥かに大きな問題になる。
 メディアの事情も似たりよったりで、この問題を掘り下げれば、どうしたって王国政府への批判に辿り着く。2006年の軍事クーデターの際の報道でも歯切れの悪さが露呈されたが、実際に記者が逮捕拘束されることはないにしても、何より厄介なのは国外退去や入国拒否といった処分で、この問題に限らず今後タイでの一切の取材活動が出来なくなる可能性があることである。

 どちらにも共通するのは、小(倫理的なもの)を捨てて、大(即物的なもの)を取るということか。国際世論の後押しが全く期待出来ないパタニの前途は厳しい。


 この言葉は初めて知った。クメールクラオム。クラオムとはクメール語で上下の下の意。英語ではLower Khmerとなる。
 適当な邦訳が思いつかないので、ここでは単純に下クメールとする。旅人的にはボートトリップと水上マーケットで有名な、ベトナム南部のメコンデルタを指す地域呼称である。

 カントなどメコンデルタの街に多くのクメール人が住んでいることは知っていたが、先住者がどうやら彼らであることと、土地の所有などを巡ってベトナム政府との間に諍いがあることは知らなかった。とは言えありがちなことなので、これも簡単に整理すると

一 メコンデルタにクメール人が住むようになった正確な時期は分からないが、6世紀に建国されたチェンラという国はクメール人の王国とされ、メコンデルタを含めた広範な地域を領有していた。

二 メコンデルタにキン族(ベトナムの主要民族)が住むようになった正確な時期は分からないが、17世紀初めには、クメール王国?が入植を認めたとされる。

三 しかしキン族と華人の勢いは増し、17世紀末期にはプレノコール(Prey Nokor。のちのサイゴン。クメール人の重要な交易地)を占領されてしまう(背景にはタイとの戦争によるクメール勢力の弱体化があったとされる)。

四 その後もベトナム人と華人の勢いは増し、世界史の上では、この時点でメコンデルタはベトナムの一部と見做されている模様。

五 19世紀中頃にフランス登場。仏領インドシナの時代が始まる。

六 1955年にフランスから独立し、ベトナム共和国(いわゆる南ベトナム)が誕生。これによって下クメールの運命は決定的なものになった。メコンデルタはカンボジアになることなく、(たぶん)永久にベトナム領となった。

 現在のメコンデルタにおけるクメール人の立場について、ウィキと彼らの組織?であるKKF(Khmers Kampuchea-Krom Federation)のホームページからしか情報が入らなかったので、客観的に見てどの程度深刻なのかは分からない。ベトナムの姓やベトナム語の使用を強いられていることや、これまで多くの指導者達が暗殺されたこと、そして国連も含めた西側世界では殆ど無視されていることは何となく分かった。この組織は完全に平和路線を選択しているようで、この点では先のパタニ問題とは大きく異なる。しかし標榜しているのは自立のようで、その目標の例として、パレスチナやコソボ、東チモールを挙げている。

 ここまで書いて何だが、これは僕にも分からない。先住民の権利確認というだけなら国際社会の支持を受けやすいと思うが、既にメコンデルタを故郷とするベトナム人が多数を占める地域での独立というのは、あまり現実的ではない気がする。仮に独立かカンボジアへの編入が認められたとしても、今度は地域でのベトナム人の人権問題が立ち上がるのは目に見えている。他にも高度な自治という考え方もあるが、どうですかね。歯切れが悪くなったが、今のところ僕には完全に白旗ですね。


 精読するのに難儀するが、インドシナの近代史や民族問題を扱った英文のサイトには興味深いものが少なくない。中には過激なものもあって、タイのトラートやチャンタブリ、スィーサケットなどカンボジアに隣接する県は、すべからずカンボジアに返還すべきと主張するのもあった。何れも先住者はクメール人だからというのが理由だが、真偽や是非はともかく、イサーンと呼ばれるタイの東北地方には、多くのラオス人が住んでいることは知られている。これと先のパタニやイサーン南部に点在するクメール遺跡のことを思うと、インドシナ半島(マレー半島を含む)でミャンマーに次ぐ面積を誇るタイという国は、本来は狭いのではという気がする。逆に言えば、これらや下クメールのことを思うと、カンボジアは本来は広いということか。

 ひとつだけ言えることは、これら諸問題の一因には、インドシナに介入した列強の都合があるということですね。

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