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 どうもこのブログの方向性が、中国とタイの風俗関連に定まりつつあるような気がする。そんなつもりはなかったが、この際一気に書いてしまおうかという気にもなっている。なんせ昔の話なので記憶が薄れないうちに。ということで今回はチェンマイ。


 チェンマイのナイトバザールの目抜き通りと平行して、一本か二本旧市街側に入った通りの一角に、カンパンディンと呼ばれる場所があった。実はこの名称を知ったのは後のことで、確か三一だか現代書館から出版されていた、タイの売春ルポを扱った本で知った。正確には憶えてないが、「チェンマイの最下層の置屋」といった表現がなされていたと思う。

 最下層かどうかは分からないが、外国人観光客で賑わうナイトバザールの華やかさに比べて、その目と鼻の先にあったカンパンディンは、いかにもうらぶれていた。人通りこそあったが道は薄暗く、舗装されてなかったかもしれない。ナイトバザール側を背に木造の平屋が連なり、棟割長屋というか、ちょっとしたスラムの風情を成していた。その多くは雑貨店か置屋だった。

 もっとも全てがうらぶれていたわけではなかった。その通りを南に少し行くと、幾分華やかな雰囲気があった。こちらにも置屋があり、うちの一軒はスナックの扉のような入り口があった。店内は暗かったが、客で賑わうホールの先に、軽く10名は越える女性達が、ライトに照らされた雛壇に鎮座していた。今から思うと一部の日本人旅行者で囁かれていた、「美人の館」とは、ここだったかもしれない。
 
 ではカンパンディンでの思い出話をいくつか。
 
 ある店で目に付いたのは、43という札を胸につけた女性だった。この店の価格設定は、ざっと50から500バーツだったが、43はいかにも可愛く、これは500バーツに違いないと思った。で、意を決して指名すると50バーツと言われ、「じゃあ500バーツって、どの娘なの?」と、思わず雛壇を眺め回した記憶がある。
 
 個室に入ると女性がリモコンでオーディオのスィッチを入れた。事情の分からない方のために説明すると、日本の風俗産業でいうプレイルームは、あの頃のタイ地方都市の置屋では風俗嬢そのものが住む部屋だった。

 チェンマイに限らずその頃の置屋の部屋には、流行なのかシステムコンポが置かれていることが珍しくなかった。置屋の女性達の多くが多額の借金を背負って就業していることは知識としては知っていたが、ではオーディオを所持する女性達が、既に返済を終え貯蓄の段階に入っていたかは分からない。これは邪推だが、女性達に更なる借金を負わせるために(より長くここにいてもらうために)、電化製品や流行の服などを買わせる仕組みめいたものがあったのではと思っている。

 その頃暇に任せてロンプラのフレーズブックを頼りにタイ語の勉強をし、簡単な会話には自信があったが、言葉が北方訛りというか、チェンダオ出身の彼女の言っていることはほとんど聴き取れなかった。唯一分かったのは50バーツのうち取り分が20バーツということで、これは金額は違うものの、比率そのものはバンコクの番号の付いたモーテル置屋?の女性達と同じだった(僕が聞いた限りでは、女性の取り分はおおむね3分の1でした)。

 ムスーという民族を知ったのも初めてだった。同じ店にいた子で彼女は番号ではなく、ABCといったラテンアルファベットが書かれた札を胸に付けていた。実はこれが500バーツクラスで、確かによく見ると同じ番号札でも色分けがあり、それによって料金が識別できるようになっていたわけだ。これも聴き取れなかったが、今から思うと女性達の傍でがなり立てていたオバサンは、そのシステムを説明していたんだと思う。ちなみにムスーとはラフー族のことで、その子は500バーツだけあって、確かに可愛かった。どうも料金差が生じる目安のひとつに、女性の色の白さがあったように思う。


 現在手元にあるロンプラ(Thailand 11th Edition 2005年発行)によると、少なくとも15世紀以来この地には、「キャラバンルート」というのが存在した。主に中国の回教徒が交易に辿った道で、雲南省の思茅/Simaoを起点にチェンマイとランプンを経由して、インド洋に面したミャンマーのモーラミャンを繋ぐ道となっている。

 地図では大雑把に三本のルートが記されていて、東からいうと、まずラオスのポンサリとルアンパバンを経由し、タイのナンとプレを通ってランプンに至るもの。もうひとつは景洪/jinghongから勐腊/menglaを通り、ラオスのルアンナムターを経由してタイのチェンコンとチェンライを通ってチェンマイに至るもの。一番西にあるのが景洪からミャンマーのチェントンに入り、そこから二手に分かれ、チェンライからパヤオとプレを経由してランプンに向かうものと、ファン(タイ)からチェンマイに至るものが記されている。ちなみにチェンマイとランプンの先は一本となり、メーサリアンを経由してモーラミャンとなる。

 このキャラバンルートは今でも続いていると思わせるようなことがあったのが、カンパンディンで最も印象に残った出来事だった(ちょっと大袈裟ですけどね)。

 ある日馴染みの店に行くと、どちらかと言えば鼻の低い顔立ちに混じって、鼻筋の通った東洋人の顔があった。とりわけタイ北部には東洋人顔は珍しくはなかったが、やはり同じ顔立ちには親しみを感じるということで、その日はゲストハウスの部屋に連れ帰った。彼女は中国人だった。それも華僑何世というわけではなく、大陸本土の出身だった。さっそく筆談となったが、その時に小遣い帳の余白に彼女が記した走り書きが、今も手元に残っている。

『叫小王 思茅 我是中国人 从中国来有十三年了 云南省 西双版纳州 』※

 思茅という地名には覚えがあった。その二年前に景洪から昆明に向かった時に乗ったバスは二泊3日かかり、その最初の宿泊地が思茅だった。「思茅なら行ったことがあるよ」という感じで、途端に小王とは打ち解けた。しかし中国から来て十三年? 二十代の中頃に見えた彼女だったが、事実とすれば十歳かそこらでタイに来たことになる。まさかと思うが、その時からこの仕事をやってたんだろうか。

 近世に入ってタイに来た雲南人といえば、真っ先にKMTの存在が思い浮かぶ。これは国共内戦に敗れた国民党の兵士が追撃を逃れてビルマに逃げたもので、その一部がタイ北部の山岳地帯に村を築いたもの。僕も実際にドイメーサロンとパイという村で彼らに会ったことがある。

 しかし彼女の場合とは時代が違う。もっとも無理に想像を膨らませれば、70年代の文革期に何らかの災難を逃れるために来たということは考えられる。実際にそういうケースがあったのかは知らないが、これなら計算は合う。

 あるいは全ては考えすぎで、普通の合法移民だったかもしれない。なまじ距離が近いことと歴史経緯があるから、つい色々と考えてしまう。ほかにも売春をさせるための人買いとか思いついてしまうが。


 後悔先に立たずではないが、長く旅をしていると、あの時こうやっとけばよかったと悔やまれることがいくつもある。この件もそうで、「どうやって来たんだ? ひとりでか家族と一緒か? パスポートは?」と疑問が次々と起こってくるが、何一つ訊いておらず、筆談にも残っていない。普通に考えれば、この二つの地域は地図の上では思いのほか近いので、人の流れがあっても不思議ではない。しかし国境というものが出来た以上は、以前ほどには自由に往来できなくなったと思う。

 2008年に久しぶりにチェンマイに来た。すでにネットなどを通じて置屋街は消滅したことは知っていたが、ナイトバザールに行ったついでにカンパンディン通りを歩いてみた。あの頃(1992年)から周辺の取り壊しが始まっており、ここも長くないなと思っていたが、少しは小奇麗になったこと以外とくべつ発展した様子もなかった。基本的に暗い感じの雨季ということもあったが、閉店したと思われるゴーゴーバーの建物など、うらぶれた雰囲気はそのままだった。立地がそれほど悪いとは思わないが、かっては勢いがあったチェンマイの観光産業自体が、もうとっくに飽和状態なのかとも思った。

 置屋を探そうとも思わなかったですね。チェンライの記事にも書いたが、やっぱり思い出は思い出ということで。

※ 厳密にいえば思茅はシーサンバンナ州ではありませんが、筆談ではそう書いてあります。

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