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再び前回の続き(以下の記述は、まだ旧館しかなかった頃の話です)。


「何もしなかった日々」といったら全くその通りだが、それでも一箇所に長くいると、大袈裟にいえば学んだことがいくつかあった。最後は擬似恋愛とバービアライフについて。

 ある日同宿者と連れ立って、ウェンインという高級ホテルに併設されたマッサージパーラーに行ってみた。時間や料金といったシステムは憶えてないが、バンコクのそれに比べて個室が狭かったことは憶えている。その際に女性から宿泊場所を訊かれ、別に隠す必要もないとツーリストインの場所を教えた。その数日後の深夜にノックが響き渡った。さすがにドアを開けるのは憚られたので、「誰?」と訊いてみると、何やら女性の笑い声。ひょっとしたらと開けてみると、あのマッサージパーラーの女性だった。部屋に入るなり彼女はぶつぶつ言いながら箪笥のドアを開け、次いでシャワールームを覗き込んだ。確証はないが、他の女性がいないかどうか確認していたんだと思う。「タイの女は嫉妬深い」というのを聞いた記憶が過ぎったが、もちろん分からない。これがタイに来た男性旅行者が一度は経験する、「擬似恋愛」の始まりだった(もちろん一部の人ですよ)。

 それから数日おきに彼女が訪ねて来るようになった。マッサージの仕事が終わってから来るので、いつも深夜だっだ。疲れているのか、部屋に入りベッドに横たわるや否や、泥のように眠りに入ってしまうのが、何時ものパターンだった。今から思うと自宅に帰るのが面倒くさいので、僕の部屋に寄っただけという気もする。そのまま昼近くまで彼女は眠り続け、そして彼女のバイクの後ろに跨ってアパートに向かうのも何時ものパターンだった。チェンライ市の北を蛇行するように流れるメーコックという川の近くで、ダブルベッドが全てといった感じの一間しかない部屋に、市内の食堂で働く妹と二人で彼女は住んでいた。そこで市場で買ってきた食事を広げ、妹と三人で昼食となるのが、これまた何時ものパターンだった。

 初めて彼女の部屋を訪れたとき、アルバムを捲りながら彼女が色々と話をしてくれた。二十代後半と思われた彼女には旦那がいたが、数年前に事故で亡くなったそうだ。バスの運転士をしていたらしい。二人の間には子供もいて、今はチェンセンの実家の母親の元に預けているということだった。ある日例によって彼女のバイクの後ろに乗り部屋に行くと、何やら賑やかな声がした。その彼女の母親が子供を連れて遊びに来ていたのだ。途端に彼女は嬌声を上げ子供に抱きついた。どれくらいぶりかは分からなかったが、彼女の喜びようは尋常ではなく、5歳くらいに見えた男の子にキスしたりズボンにシールを貼ったりと大騒ぎといった感じだった。

「南国の人のおおらかさ」と言ったら大袈裟だが、これと似た場面が記憶にあった。89年にナイロビに行った時に、「フロリダ2000」というディスコで知り合ったマラヤさん(一般には売春婦の意)の村に行った時の事で、その時も彼女の母親や妹達が迎えてくれた。彼女の境遇も似た感じで、離婚した後は子供を母親に任せ、毎夜フロリダに出勤するという日々を送っていた。さすがに母親と会って気恥ずかしさが先に立ったが、向こうは全く気にする素振りを見せず、コーラなどを御馳走になった記憶がある。お母さんは終始笑顔で、何を話したかは全く忘れたが、何とも不思議な時空間だった。このチェンライの時も全く同じだった。子供に夢中の彼女と笑顔で見守る母といった場では、明らかに僕は部外者だったが、お母さんは気を遣ってくれ、何時ものように市場で買ってきたおかずを広げて、楽しい食事の時間を過ごすことが出来た。これも旅の重要な要素のひとつだと思うが、一部の人からは評判のよろしくない擬似恋愛の醍醐味のひとつが、この種の場面を経験することにあるように思う。


 チェンマイに比べると遥かに小さなチェンライだったが、ゴールデントライアングルへの通過点となるためか、毎日多くの旅行者が訪れていた。それに伴って外国人旅行者を当てにしたバーが、このチェンライにもいくつかあった。二ヶ月弱の滞在だったツーリストインで最も印象に残っているのが、このバービア通いだった。

 相変わらず中高年に囲まれた日々だったが、ある時同年代の男性と親しくなった。彼Cさんは元バックパッカーで、それだけでも話が合ったが、彼のありようで最も興味深かったのが、「日本人は勿体ない。タイには楽しいバーがたくさんあるのに何で行かないんだろう」という姿勢だった。確かにそうで、今は知らないが、その頃タイにある多くのバーのカウンターは白人達で占められていた。行かない日本人がいなかったわけではないが、行くとしても、バーはバーでもゴーゴーバーが多かったような気がする。しかし彼は違っていた。ハンサムな顔立ちに英語が堪能というアドバンテージはあったが、彼は臆せず連日のようにバービア通いをしていた。よって金魚の糞のように、僕も付いて回ったわけだ。

 その頃ツーリストインの近くにファミリーバー(正式名称はムーンカフェだが、なぜかCさんはそう呼んでいた)という店があった。以前パッポンで踊っていたという女性と、ベトナム戦争経験者という初老のアメリカ人男性との夫婦が経営している店で、ここが第一の彼の行きつけの店だった。このアメリカ人の男性が日常的にカウンター越しにいることはなかったが、温和な人物で、ひどく礼儀正しかったと記憶している。あまり賑わっている様子はなかったが、その分気楽に過ごせるのもこのバーの良さで、一度店が引けた後、ママやホステスも交えてディスコに行ったことがあった。店自体も明るく、連れ出しといった雰囲気はなかったように思う。

 次に行ったのがレゲエパブという店で、どちらかといえば、ここがCさんの本命のように見えた。こちらは薄暗く連れ出し色が漂う雰囲気だったが、別に飲み物を強請られることもなく、五目並べのようなゲームを通じて楽しく過ごしたものだ。ここのホステスの一人はCさんに夢中だったが彼にはその気はなく、彼に奇声を上げて縋りつく彼女と、彼女を冗談交じりにあしらう彼といった図も、僕にとっては見所のひとつだった。ちなみに店には客として、若いタイ女性が来ることもあった。どちらかといえば客を探しに来た客といった感じで、彼女達の目当ては白人客のようだった。実際にカップルが成立した場にお目にかかったことはないが、バンコクやチェンマイならともかく、この田舎町チェンライでも「フリー」の存在が確認できたのも、売春そのものよりも売春形態に関心があった僕にとって、バーに来た収穫といえた。

 ここの向かい側にあったのがPPパブで、ここのホステスの一人もCさんに夢中だった。色白で、英語と片言のタイ語を話すCさんは、何処でもモテモテだった。僕など当て馬以外の何物でもなかったが、Cさんと共に過ごしたバービア巡りは、あの時のチェンライ一の思い出となった。さらに二人の探索は続いた。もう店の名など忘れたが、二人で片っ端から夜の街を彷徨い始めた。バーに限らずカラオケからナイトクラブ、さらには最近出来たばかりというゴーゴーバーまで狂ったように飲み歩いたものだ。時には女性を連れ出したり、関係ないが両替に行った銀行の女性行員を口説いたりとやりたい放題で、「そのうちオレたち刺されるんじゃないか?」と二人で顔を見合わせ真剣に思ったほどだった。いやいや本当に楽しかった。


 結局マッサージパーラーの女性とどう終わったのかよく憶えていない。やがて彼女は来なくなり、僕の方からも行かなかっただけという、ありがちな自然消滅といったケースだったと思う。その頃バー巡りで忙しかったこともあったかもしれないが、そのバー巡りも次第に飽きてきた。Cさんも似た感じで、チェンライ滞在の最後の方は、さんざん遊び深夜二人でツーリストインに戻るものの、「今日も何もなかったね」といった自嘲気味の笑いを交わすことが多くなった。もう潮時かなといった感じで、間もなく彼も僕もチェンライを後にし、日本に帰ることになる。

 余談だが98年頃にチェンライに行った時には、ツーリストインは大きなビルになっていた。知った顔は誰もおらず、つけていた日記では、夜通し日本人の主人と語り合ったとなっている。その頃主人は鍵番のような役割をしていて、外出している客のために夜通し待機していた。元旅人ということで話が合い、僕も付き合って話し込んでいたわけだ。ゲストハウスの苦労話や在住者達の動向など興味深い話をたくさん聴かせて貰った記憶がある。以前に比べて街は格段に発展していたとは思うが、遊ぼうという気には全くなれなかった。この理由を一口で説明するのは難しいが、これが僕にとっての最後のツーリストインでありチェンライとなった。そして間もなく旅そのものを止めてしまった。

 2000年代に入った数年後に性懲りもなく旅を始めてしまったが、タイには行くもののチェンライには行っていない。その方面に行く理由がないからなのだが、あったとしても泊まらないでしょうね。やっぱり思い出は思い出ということで。

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ここのところ私事多忙にて更新が滞っています。
忘れたわけではありませんので、まったりとお待ちください。
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