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前回の続き(以下の記述は、まだ旧館しかなかった頃の話です)。


 その頃ツーリストインを仕切っていたのは、みんなからママさんと呼ばれる三十代前半くらいに見えた痩身の女性だった。ママさんの母親も一緒に住んでたと思う。そしてブアと呼ばれる17歳くらいの少女が女中として住み込んでいた。このブアちゃんはカレンという少数民族だったと記憶している。ちなみにママさんには旦那がいたが、長期滞在者の話によると、どうも別居中だったようだ。やがてママさんは数年後に客として訪れた日本人と再婚することになるが、それはまた別の話。

 92年の大晦日には焼肉パーティーが開かれた。網ではなく半球状の鉄鍋?に肉を乗せて焼くもので、確かコーリーとか呼ばれる料理だった(韓国式か?)。肉を二三切れ摘んだ記憶はあるが、後は何も憶えていない。ウィスキーを飲みすぎフラフラになったと日記ではなっている。よって93年の元日の体調は最悪だった。おまけに表に出るとサンダルがない(ツーリストインの部屋は土足厳禁ではなかったが、床が汚れるのを避けるため、滞在者の多くはドアの前でサンダルを脱いでいた)。やっぱり昨夜は何かしでかしたのかと不安になりながら、サンダルを求めてフラフラ彷徨っていると、探して持って来てくれたのがママさんの弟だった(兄か従兄弟だったかも知れませんが、弟として話を進めます)。

 その二三日後のことだったと思う。そのママさんの弟さんが交通事故に遭って病院に運ばれた。その時ママさんが泣きながら、英語で弟の容態を説明してくれたのを憶えている。やがて弟さんは間もなく息を引き取った。僕達ツーリストインの面々の何人かが葬式に参列した。タイの葬式を見たのは後にも先にも初めてだが、今でも憶えているのは火の球だ。一通りの儀式が終わると火葬になった。僕のすぐ傍に針金のようなものが張ってあり、あまり意味が分からず軽く触れたりしていたのだが、突然右の方からピューと鋭い音が鳴り響いた。見ると、針金を伝って火の球が向かってくるのだ。僕は慌てて避けたが、そのまま火の球は棺桶周辺に直撃し、ボーと火の手が上がった。途端に参列者の何人かから嗚咽が聞こえてきたのを憶えている。


 ツーリストインにはレストランはなかったが、軽い食事を取ることはできた。確か目玉焼きとウィンナーのコンチネンタルブレックファーストといった感じのもので、これにライスかトーストを選択できたと思う。後に「ママさんが焼くパン」が評判になるツーリストインだが、その頃はなかった。それとは別にセルフサービスのネスカフェがあり、一日が始まると表のベンチに座って、まずは一杯のコーヒーというのが僕の日課だった。

 昼食は街中の安食堂でとるか、オカズを買ってツーリストインで食べるかのどちらかだった。とりわけ僕が好きだったのがソムタムで、宿のベンチで食べてると、通りかかったブアが、「ソムタム!」と元気よく言っていたのが記憶に残っている。夕食もそうだが、ツーリストインの宿泊者とは雑談は交わすものの、一緒に食事をとるということは、あまりなかったように思う。というより、そういう雰囲気が湧き上がって来なかったような気がする。この点では、例えば同時期に宿泊したデリーのウプハールやナイロビのイクバルとの決定的な違いだった。これも世代の違いなのか、たまたまだったのかは分からない。

 では当ブログお約束というわけではないが、置屋の話を少し。ツーリストインの裏手にも何軒かの置屋があったが、そのうちの一軒の造りは、何ていうか異様だった。確か二階建てで下は普通だったが、二階のテラスは針金のような格子でびっしりと囲まれていた。このテラスそのものを格子で囲むという建築様式自体は珍しくなかったが、いかにも手で張った感じの歪んだ格子といい、ここが置屋であることと照らし合わせ、女性の逃亡を防ぐためではないかとあれこれ想像を巡らせたものだ。もちろん正確なことは分からないが、旅行者の間で有名だったのはここではなく、少し郊外にあった、「空港」と呼ばれる場所だった。

 幅の広い通りの両側にいくつかの家屋が軒を連ねていて、そのうちの何軒かが置屋だった。ツーリストインの長期組に案内されて来たのだが、何でもこの先に旧い空港があったらしく、そう呼ばれているとのことだった。空港の値段は、おおむね100バーツだった。女性達は普通のタイ人だと思っていたが、中には山岳民族の子もいたようだ。

 ここで今でも憶えているのが、「勤務録」。行ったことがある人しか分からないと思うが、ここに限らず置屋の女性達の多くは、自分の仕事を小まめに付ける小冊子を所持していた。ある時女性と部屋に入ると、さっそく彼女が記入を始めた。見せてもらうと記載内容はいたってシンプルで、単純に日付と料金が記されていた。ぱっと一か月分を計算してみたが、その子は一日平均4,5人の客を相手にしていた。

 興味を惹いたのは、数字に若干のばらつきがあったことだ。「100、100、100」と続く中に、突然500という数字が現れた。これは泊まりかと彼女に訊くと、「ファラン」と答え、次いで彼女が笑いながら泣く真似をした。「あの時は泣いたのよ」ということだろう。しかしボッタくられたとはいえ、ファラン(一般には白人の意だが、非タイ人と見做された東洋人がこう呼ばれることもある。個人的には、「外国人」という訳の方が近いと思う)が空港を利用しているとは思いもしなかった。


 観光らしいことは何もせず、食べて飲んで雑談の繰り返し。旅はもちろん社会全体からも遠ざかっていくのを感じながらも、ツーリストインの暮らしは心地よかった。それでも現実に戻される時が何度かあった。このツーリストインにも若い旅行者(といっても当時の僕と同年代)が訪れることがあった。今から思うと過剰反応なのだが、さすがに気恥ずかしさを感じたものだった。「つっこまないでくれ~」といったところだろうか。日本社会を強烈に意識したこともあった。ある日惰眠を貪っていると、「クン! クン!」(クンは「あなた」の意)とドアをノックするブアの甲高い声がした。何だと思ってドアを開けると、中年の男性を先頭に日本人の家族連れが立っていた。その男性が言うには、かって彼の父親がここに泊まったときに病気になったそうで、その際にママさんから良くしてもらったとのこと。今回はそのお礼を兼ねてタイに来たようだった。あいにくママさんは留守で、その旨を伝えておきますといった感じで場は終わったが、何ていうか久しぶりに目にする、「普通の日本人」の姿だった。突然の来訪に緊張し、ぎごちない敬語を使って応じたことが思い出されて可笑しい。

 ある日、ママさんからシャワーの取り付けを頼まれたことがあった。取り付けといってもドライバーで壊れたシャワーを外し、新しいのに付け替えるだけだったが、その話を他の宿泊客に言うと、「やっぱり男手が必要なんだなあ・・・」と、妙にしんみりとした空気になったのを憶えている。それも数年後には解決するのだが、これはまた別の話。

 まだツーリストインの話は続きます。

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