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 この船が今でも運航しているかは知らないが、1989年に広東省の広州から海南島の三亜(sanya/サンヤ)まで、一泊二日の船旅をしたことがある。初めての海南島で、初めての中国旅行の時だった。三亜で滞在したところは大東海(dadonghai/ダードンハイ)という浜のすぐ傍にあった浜海招待所という安宿で、広州で出会った日本人から教わった場所だった。棟割長屋のような平屋のコンクリート造りの建物のほか、南国の雰囲気が漂う藁葺きの簡素なバンガローがあり、値段が変わらなかったこともあって、当然バンガローの方に部屋を取った。

 現在はもちろん当時でも海南島はリゾート地と謳われていたが、大東海の浜でカラフルなビーチパラソルやアクティブなマリンスポーツを見た記憶はない。実際に高級ホテルの類もあったが、宿から歩いて五分の浜には人影はほとんどなく、半砂漠のような砂地と椰子の群生が広がっているだけだった。終日凪のような海水の透明度も高く、今から思うと本格リゾートになる直前の、一番いい時期に行ったと思う。

 数少ない海水浴客を除いて目立ったのは、揃いの黒の民族服を纏った回族(フイぞく)の少女達だった。素足姿が健康的ながらも痛々しく見えた彼女達の主な役割は、観光客を相手にバナナと人民元を売ることだった。バナナはともかく人民元を売るというのは、当時はFECと呼ばれる外国人専用の通貨があり、旅行者達は銀行で手に入れたFECを、路上などで人民元と交換するのが常だった。必ずしも換えなければならないというものではなかったが、手持ちの金が多少は増えるという理由で、多くの旅行者達が路上での取引に応じていた。とはいえ闇といえば闇両替。実際に違法だったかどうかは分からないが、それと関係があるのか昆明のサニ族など、実際に表に立って金銭のやり取りを担当していたのは、少数民族の女性達が多かった。こう言っては何だが、都合の悪い事を何かと保護されている(権力が手を出しにくい)少数民族に託すというのも、漢族人民の知恵という気がする。

 ところで僕が宿泊したバンガローだが、折しも9月から10月にかけての海南島は台風の季節だった。ある夜、ジョニー大倉似の宿のマネージャーから危険だから部屋を移れと言われ、荷物をまとめてコンクリートの棟に移動した。夜になって、彼が言った通り猛烈な台風が襲ってきた。そして風雨が去った翌朝、バンガローが見事にペシャンコになっているのを見て、吃驚仰天した記憶がある。更に驚いたのが、宿の前の海の表情だった。昨日までは波が全くなくプールのような海面だったが、今朝は空こそ晴れ渡っていたが、大波がうねる時化の容貌だった。一変といった言葉がぴったり当てはまり、この日を境に大東海の浜で泳ぐことはなかった。


  通什(tongshi。現在は五指山市)や琼中(qiongzhong)といった内陸の街を巡り、三亜に戻って再び浜海招待所に投宿した数日後に、一人の日本人がやって来た。三十歳くらいに見えた男性で、すでに中国に入って半年あまりというベテランだった。さっそく情報収集に励んだのは言うまでもない。

 ある夜、二人で三亜の街で夕食を取り、そのまま通りをぶらついていると、一台のサイドカー付きのオートバイが近づいて来た。当時の三亜の街では一般的なタクシーと言っていい。そしてライダーというかドライバーが開口一番、「ファッキング!」。一目で僕達が外国人と見抜いたようだ。勿論これは罵り言葉の意味で言ったわけではなかった。早い話がポン引きなのだが、僕達が英語に不得手な日本人だったからよかったものの、白人に対しても同じ調子で声をかけてるのだろうかと思った。というより僕は殆ど見かけなかったが、あの頃の三亜でも日常的に外国人が訪れ、その一部が彼の客になっていたのかもしれない。

 サイドカーに乗り暗い通りを行った先にあったのは、一軒の鄙びた飯屋のような空間だった。表に電飾があるわけでもなく、店内は裸電球の黄色い灯で弱々しく照らされてるだけで、何処からどう見ても風俗店には見えなかった。喜色満面のドライバーに促され丸テーブルに着くと三人の女性がやって来て、早速ドライバーがお茶を用意し、にこやかに場を仕切り始めた。ドライバーはあくまで機嫌がよく、おそらく車代とは別に、何某かの紹介料が入るのだろうという馴染みの展開だった。

 ドライバーは「ファッキング」以外の英語を話さず、僕達も数字くらいしか中国語の理解力がなかったが、円卓を囲んで女性達と向き合いお茶を啜るという場は、なかなか趣きのあるものだった。何ていうか如何にも中国的という感じで、言葉は通じないものの女性達は笑顔で、和やかな時間を過ごしたと思う。因みに料金だが人民元では忘れたが、日本円で三千円くらいだったと記憶している。

 あと記憶にあるのは、案内されたドミトリーのような空間にあった寝台には隣客がいて、張られた蚊帳越しに女性達の間で避孕套(biyuntao。コンドーム)の手渡しがあり、思わず吹き出してしまったこと。そして店を去る際に女性が抱きついてきて、「明天来、明天来」と耳元で囁いたことは、しっかりと憶えている。


 それから10年近くたって、僕は雲南省の瑞麗という街に来た。自分でも意外な感じがするが、これが二度目の中国旅行だった。この瑞麗は随分と風俗産業が盛んな所で、通りによっては紅灯がびっしりと道の両側に張りついている感じだった。店の傍を歩くと中にいた女性達から、「起来吗、起来吗」※と、何とも中国的な高く細い声が響き、声に魅かれるように何軒かの店に入ってみた。

 横並びというか、どの店も200元という料金は全て同じだった。同じだったのは料金だけではなく、どの店も若くて綺麗な老板/laobanが迎えてくれた。実際かなり美人で、一度店員と間違えて指名したこともあったくらいだ。あの頃の瑞麗の風俗店のナンバーワン嬢は、間違いなく老板だったと今でも思う。

 そして同じだったのが、まずお茶を出されることだった。ソファに掛けると、必ずといっていいほど老板が愛想よくお茶を注いでくれた。少し意外だったのは、お茶だけ飲んで店を出ても、誰も引き止めようとしなかったことだ。そういう取り決めでもあったのかは知らないが、三軒くらい回ると、お腹がたぽたぽになった記憶がある。

 お茶を飲みながら周りの女性達と和やかに過ごすというのは、たとえ風俗店とはいえ中国ならではという気がしますね。ビアレック片手にダンサーの品定めも悪くはないが、あの頃の瑞麗は本当に面白かったですよ(97年頃の話です。現在の状況は知りません)。

※ 起来吗/qilaima こう聴こえたと記憶していますが、正確ではないかもしれません。訳が正しいとすれば、「寄って下さいな」といったところでしょうか。
 

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