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 80年代後半の話。言うまでもなく、現在の状況は知りません。

 あの頃ヤワラーに滞在していた人なら記憶にあるかもしれないが、ジュライホテルを出て台北旅社の前を通り、そのままチャロンクルン通りを越えヤワラー通りに差し掛かった角の辺りに、南興旅館と記された建物があった。実際に宿泊を試したことがないので分からないが、旅館とは名ばかりで、実情は風俗店と言っていい。一部の男性旅行者の間では馴染みのキーワードである、「置屋」だった。

 この店の前はバス停になっていて、中国系と思われる「やり手婆」が、バスを待っている目ぼしい男性にヒソヒソと声をかけていた。もちろん客引き行為で、多くの人が行き交う混雑した路上で白昼堂々と行われているのを見て、まだ外国に来て日が浅かった僕には、異郷に来た思いがしたものだった。
 
 店内を入ってすぐの左側には雛壇(としか言いようがない)があって、白塗りの貌に赤い紅を注した少女達が無表情に座っていた。正確には覚えてないが、客と少女達の間には、透明ガラスの仕切りがあったと思う。少女達がいる空間は、全体的に赤色がかっていた記憶がある。

 店には先客が二人いた。共に赤いターバンを巻いた背の高いインド人で、髭を蓄えた貌を微塵も動かさず、食い入るように少女達を凝視していた。実際には気味が悪くなって店を出たのだが、これが僕にとって初めて見た置屋だった。



「僕はタイに来たらマスターベーションはしないんですよ」と言う大学生と知り合ったのは、その数年後の年の瀬も迫ったチェンライのゲストハウスだった。既に置屋経験のあった僕だが、彼は更に上手といった感じで、さっそく二人で探索に出かけた。

 程なく置屋は見つかった。置屋の外観の特徴の一つとして、小さな赤いネオンが控えめに煌いているというのがあったが、その店は灯篭が赤く弱く点いているだけだった。店内は大広間といった感じで、客と対峙して二十人くらいの女性が椅子に座っていた。遮る仕切りは何もなく、正にお見合いといった感じだった。女性達の多くはタイ人にしては大柄だったが、後に知ったところによると、その多くはビルマ人ということだった(後日談になるが、その時お相手してもらった女性が、後にメーサイの路上で籠に入った林檎を売っているのを見て仰天した記憶がある。引退したわけですね)。

 彼とは意気投合して、そのあとメコンに面したチェンセンという街に行った。ゲストハウスに投宿し、夜になって当たり前のように「探索」に出陣した。こんな小さな村にあるのかと思ったが、通の彼が言うには、「タイにはどんな街に行っても置屋がある」とのことだった。

 事実あった。しかも二軒。最初に入った店は、村の青年達の寄り合い所といった感じだった。十人くらいの若い男性が、椅子に座った一人の女性を前に、賑やかに談笑していた。「オマエ行けよ」「オマエこそ行けよ」といった感じで、互いに顔を見合わせながら笑いが絶えなかった。女性の方も笑顔だった。「アンタたち、早くしなさいよ」といったところだろうか。

 やがて意を決したのか、一人の男性が立ち上がった。そして周りに冷やかされながら照れ笑いを浮かべた男性は、同じく笑みを湛えた女性に手を引かれ、奥に消えていった。何とも微笑ましい場面で、二人で顔を見合わせ笑った記憶がある。これも村の青年達の、一つの追加儀式のようなものかと思った。

 目と鼻の先にあった二軒目の店の客は、僕達二人だけだった。女性は5人くらいいたので、なぜ青年達はここに来ないのだろうかと意外な感じがした。とはいえ実情は分からない。さっきの店にも複数の女性がいて、あの一人の女性以外は、「仕事中」だったのだろうと思った。

 この店で今でも憶えているのは、客と女性の間に、竹で出来た格子があったことだ。竹囲いといった感じだろうか。もちろん全てではないが、バンコクで見た置屋やマッサージパラーの多くは、ガラス張りの仕切りだった。それが対岸はラオスという辺境の街では、竹の仕切りになったわけだ。

 この変化に妙に感動した記憶がある。都会から田舎という流れそのもののように思えた。因みに料金は50バーツで、ここでも女性達の多くはビルマ人だった。

 その時に泊まった二十代と思われる宿の女将さんは、何ていうか豪快な人だった。「アンタたち、行ってきたの?」と、周りの従業員も一緒になって笑い飛ばされたのを憶えている。現在の尺度では考えられないかもしれないが、ある意味いい時代だったと思いますね。



 彼とはそのままチェンマイに行き、次いでスコータイに行った。当時(80年代末期)は世界遺産ではなかったかもしれないが、ガイドブックの上では名所だった。昼間はバイクを借りて二人で遺跡巡りをし、夜は相も変わらず出陣した。夜道で片手を拳にし、片手を広げて叩く仕種をしながら、「パンパン」と言えば通じると彼が一言。早速サムロを拾い試してみると、あっさり通じたので吃驚した記憶がある。この若者は達人か?

 人気のない暗い道を進んだ先にあったのは、置屋街ともいうべき場所だった。平屋の木造の建物が、間を置いて何軒か連なっていて、既に何人かの地元の若者達で賑わっていた。

 ここで再び感動したのは、客と女性との間が鉄格子で仕切られていたことだ。何となく牢屋のような感じがしたが、北に向かってガラスから鉄格子、そして竹囲いという流れは、深い意味はないのかもしれないが、今から思うと地域格差のサンプルという気がする。

 格子の向こう側では、女性達の多くが談笑しながらテレビに見入っていた。退屈そうに編み物をしていた女性もいた。時々「ウォーイ」と女性達が嬌声を上げた。テレビ画面はこちらからは窺えないので、そんなに面白い番組かと思ったが、「ダンプーマツモトー」というアナウンスが聴こえたので、日本の女子プロレスだったようだ。

 因みにここも料金が50バーツだった。喫茶店のコーヒー代かと溜息まじりに何度も思ったのも、あの頃の置屋ライフでしたね。
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